プチコラム//吸血と搾乳
今よりもずっと子どもの頃、どこぞのまったり番組を見て思った。
搾りたての牛乳求めて、牛さんのおっぱいをギューッとやってるんだが、
・・・これオンエア的にありなのか?
じゃなくて、なんだか牛さんかわいそうって思った。。
あんなにギューッとやられて、イタくないわけがない。
初心者が手荒くギュッギュッとやってると、
牧場主と思しき人がやってきて要領を教える。
そうすると、「ギュッギュッ」が「ギューッ」になる。
優しくやるんだよ、って言うけど、どっちにしろイタい。
でも、そうして得られる牛乳・乳製品を僕は毎日摂っている。
そんなこと考えてると、
蚊に血を吸わせることなんてどうでもいいように思えた。
血なんてちょっとだし、「かゆい」くらい何でもない。
と、言いたいけど、そんな安易なことにはならない。
僕は容赦なくペチャンとやるだろう。
殺虫剤を撒くだろう。
そう、数多ある命には順序がある。
と言っても、大局的には全てが等価なんだろうけど。
人間が個人感情を持つ以上、全ての命に順番がつく。
テレビで話題になったアザラシが衰弱死して泣いても、
僕らは決して焼肉の最中で泣いたりはしない。
前述の例で言えば、十中八九、
人間>牛>蚊
の式が成り立っている。
そして、おそらくそれは人間という同一種の中にも適用される。
「自分」の命は限りなく上位に位置するだろうし、
「他者」の命はそれよりも下に位置する。
おそらく、この概念は書き換えることができない。
否定できる人がいるのなら名乗り出てほしいもんだ。
問題は、それをきちんと認識しておくこと。
この世界には数多の命が存在していて、
本当はそれらに差なんてものはないハズなのに、
僕らはそれらの犠牲の上に存在しており、
物心がついた頃にはすでに、僕らは立派な「罪人」。
「罪人」であることを悔いる必要は全くないけど、
「罪人」であることを自覚して生きなければならない。
それができないのなら、
「犠牲」のためにも死んだほうがいいのかもしれない。
とあるマンガにこんなことが書いてあったのだが、
心臓をギュッと掴まれたような気持ちになった。
否定できない。。
別に神様とかを信じてるワケではないのだが、
僕はどこかで「救い」を求めながら、
「業」を抱えて生きようとしているのかもしれない。
そして、それは何ら意味を成さないのだろうけど。。
普段、頭の中で脳内ミュージックが流れているんだが、
今日は映画サウンド・オブ・ミュージックから
「私のお気に入り」(だったけかな)
♪ぱーぱっぱぱーぱーぱーぱぱぱぱー
ここまでは順調なんだけど、ここから一気に
「古畑任三郎のテーマ」へと曲が変わってしまうのだ。
うー、なんだかモヤモヤ。。
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